ファンの皆さんは既にご存知と思います。キング・クリムゾン史上最もインパクトの強いラインナップ、太陽と戦慄クリムゾンのメンバーとしてアルバム『太陽と戦慄』制作のキーパーソンとして活躍したジェイミー・ミューアが2025年2月17日に亡くなりました。享年82歳。
クリムゾンでの活動期間は短かったものの、その後『暗黒の世界』、『レッド』へと突き進んでいくメンバー4人に与えた影響は大きく、今も世界中で聴き続けられている最も人気の高いクリムゾンの作品群にその痕跡ははっきりと記されています。
単なる打楽器奏者、ロバート・フリップが単に思いつきだけで参加させた色物などミューア過大評価に対するアンチも多々見受けられますが、2023年に発表された『太陽と戦慄50』に収録されたデヴィッド・シングルトン制作による2023エレメンタル・ミックス、同梱のブルーレイに収録されたコンプリート・レコーディング・セッションズの音源を聴けばその存在がクリムゾンに与えたものの大きさがはっきりと確認できます。
音楽表現者には様々なタイプがあります。活動・作品を重ねていくことでその存在をアピールし認知されていく音楽表現者がいる一方、一瞬の輝きを残し表舞台から去る音楽表現者がいることもまた事実。彼はその後者の典型であり、『太陽と戦慄』に記録されたその輝きはキング・クリムゾンにとってのBIGBANGとなりその後キング・クリムゾンが進む道を切り開く上で重要な役割を担ったと思います。
ジェイミー・ミューア追悼の想いを込め市川哲史氏が書き下ろした追悼原稿をここに掲載いたします。

ジェイミー・ミューアが逝った。
フリップ以外全員チェンジした〈新生キング・クリムゾン〉のアルバム『太陽と戦慄』を聴けば、ミューアのパーカッションが新機軸の象徴なのは誰でもわかった。
カリンバのミニマル・ループから始まる3分間のミューア劇場から、ドップラー・ヴァイオリンそしてギターとベースのヘヴィーなパッセージの応酬へと戦線拡大していった“太陽と戦慄 パート1”。“土曜日の本”と“放浪者”にはほとんど参加できなかったものの、“イージー・マネー”では重低音が完全制圧した空気をバケツの水やフレクサトーンや笑い袋を駆使して、自由に荒らしまくった。なぜ。
そして両面太鼓の民族楽器トーキング・ドラムを素手で叩きあげるミューアに襲いかかるように、リズム隊が轟音化しながら爆走する“トーキング・ドラム”を前奏にして、ロック史上最もフリーキーなのにストイックな“太陽と戦慄 パート2”がユニゾンと変拍子を研ぎ澄ましあげて我々を圧倒した。
とにかく新しかった。
ヘヴィーなリフとパッセージが唯一の共通言語のバンド・インプロヴィゼイションを主役に据えた、『暗黒の世界』を経て『レッド』に結実する《1974年のキング・クリムゾン》の奇蹟への〈試金石〉として、『太陽と戦慄』はちっとも色褪せない。
そこに、その轍には草木も生えぬ〈殺戮の爆音リズム隊〉ジョン・ウェットンとビル・ブルフォード、と(最後の最後で蹉跌を食んだけど)デヴィッド・クロスの存在は欠かせない。しかしジェイミー・ミューアという、デレク・ベイリーに愛された「稀代のフリー・インプロヴァイザー」にして「本能のパフォーマー」を招聘したことで、新生クリムゾンはまるで青年のように高邁な理想を掲げ、〈音楽の最も正直で純粋なカタチ〉としてのフリー・ミュージックに最接近したのだ。
とはいえフリップ自身が「若い演奏者たちがあのコンセプトをマスターして消化するには、あまりに時期尚早だった」とのちに反省したように、「本能の赴くまま演奏する」ことを強く意識し過ぎて頭でっかちになった面は否めない。そういう意味では、続く『暗黒の世界』『レッド』の方が「俺が俺が」の音楽的自己顕示圧がある意味純粋な分、本能が理性を凌駕して弾きまくる衝動的なメタル・クリムゾンが実現したんだと思う。
ただし、理性と本能の手探りのランデヴーが『太陽と戦慄』という結果的に従来のロックの文脈を初めて踏み越えた、スリリングなのにリリカルな名盤を生んだのだから、人生捨てたもんじゃない。それもこれも〈いるだけで異物〉ミューアの加入が、クリムゾンに対する聴き手の先入観を粉砕するうえでも、メンバーたちのリミッターを外すうえでも、劇的に作用したゆえである。文句あるか。
昨年晩秋リリースの『レッド50:50周年記念2SHM-CD+2ブルーレイ・エディション』封入の、「『レッド』を生んだ怒濤の1974北米ツアー音源を網羅したKING CRIMSON COLLECTORS’ CLUB DATABOOK Vol.4」40頁原稿を書き下ろすため、26公演分のライヴ音源を久々に聴き倒した。目茶目茶恰好いいけど死ぬかと思った。
くどいようだがキング・クリムゾンとは、毎晩毎晩インプロヴィゼイションという幾つもの修羅場から生まれるエネルギーとダイナミズムを食らっては血肉化し続ける、モンスター級のロック・ヴィランである。「曲に命が吹き込まれていく(フリップ談)」過程を、我々は無数のライヴで目撃してきた。1980年代の『ディシプリン』期も、1990年代のWトリオ期も、2000年代の加工オルタナ期も、ずーっとそうだった。
そして「あれはインプロじゃなく単なるアドリブ」と『アイランズ』期を自ら全否定する大先生に倣えば、そんなクリムゾンの本質を1972年秋のミューア加入から1974年北米ツアーまでひたすら究極の進化を遂げ続けた〈爆音センチメンタリズム〉が決定づけたのだ。あんな史上最強キング・クリムゾンがツアーで醸成されるプロセスと成果を一度でも味わってしまったら、当事者のロバフリも聴き手の我々も常にこれが最低ラインと思うようになっていた。なんと贅沢で身の程知らずな。
爆上がりのバンド偏差値は高すぎるハードルとして、クリムゾン在籍者の心身をいまなお削り続けるのだ。

キング・クリムゾンにとってジェイミー・ミューアは、まさに運命のトリガー(銃爪)だったのである。幸か不幸か。『太陽と戦慄』たった一枚の間でも彼が加入してなかったら、その後のクリムゾンはまったくの別バンドになってたはずだ。いや、完全消滅していた公算が高い。
とここまでは、『太陽と戦慄』を何百回も聴き込んできた者なら誰でも、頭で理解してきた。しかも付随するさまざまな文字情報が、我々の妄想力をさらに煽る。
おそらくロック的世界観や価値観とほぼ無縁のデレク・ベイリー師匠が、1970年前後のころ最も影響を受けたミュージシャンとして名前を挙げたのがミューア。「次に何が起こるのか知っていることほどつまらなく、退屈なものはない」的お題目まんまのミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニー(MIC)を、なんかよくわからないけど聴いて無理矢理納得した思春期の自分。ビルブルの自宅結婚パーティーでミューアに薦められた仏教書『あるヨギの自叙伝』に影響受けすぎて、『海洋地形学の物語』を作ってしまったジョン・アンダーソン。〈まだ見ぬ強豪〉感が半端ない。
しかし徐々に徐々に怪しくなる。北村昌士氏の名著『キング・クリムゾン 至高の音宇宙を求めて』に紹介された英サウンズ誌記者のコメントは、衝撃的ですらあった。
〈彼は毛皮でできた羽のようなものを着て、ステージの上を飛びはねるように動きまわり、物をふりまわし、ゴングに鎖をたたきつける。演奏中に叫びながら客席を走り回り、血を吐き出しながらソロのクライマックスへ達する(原文ママ)〉。
私の頭にはブルーザー・ブロディ(←死語)しか浮かばない。しかも、ステージ上でカプセルを嚙み砕いて血を吐いただの、チェーンを振り回したらフリップ先生の頭蓋骨をすんでで粉砕しそうになっただの、実際のライヴを観られなかった極東の島国の信者にはわけがわからない。あげく『太陽と戦慄』完成直前のライヴ中に落下したゴングで足に大怪我を負い、メンバーに別れも告げずそのまま消息を絶った――ってほぼ梶原一騎ワールドじゃん。なのに、なのに《LARKS’ TONGUES IN ASPIC》なんて文芸っぽくて小洒落たアルバムタイトルを冗談とはいえ命名したのも、このUMAだからストレンジだった。
やがて21世紀が開幕すると、さすがに「正確」な情報が届き始めた。
前述のヨギ本読んだらチャクラが開いてしまったので、タントラ仏教を追究すべく衝動的にクリムゾンは脱退。スコットランドの小さな村の僧院生活を経てフランスとインドの仏教徒の隠遁地で暮らすと、1980年代には画家生活に。ベイリー巨匠界隈のレコードのタイポやアートワークを手掛けてたが、ベイリーとの共作『ダート・ドラッグ』やマイケル・ジャイルズ&デヴィッド・カニンガムと制作した幻のSF映画サウンドトラック『ゴースト・ダンス』などの音楽物は片手に余る寡作ぶりで、やがて表舞台から完全に姿を消した。
結局、短期間の在籍で圧倒的な存在感を残したにもかかわらず、小説の登場人物っぽいというかこれだけ実存感の薄いひとは稀有だと思う。
それだけに2012年に公開された、『太陽と戦慄』40周年エディションCD+DVD盤および『太陽と戦慄ザ・コンプリート・レコーディングス』13CD+DVD+BD箱収録の、独TV『ビート・クラブ』スタジオ・ライヴ映像3曲は衝撃的だった。“太陽と戦慄 パート1”はVHSヴィデオ『ビート・クラブ~黄金のロック伝説VOL.7/プログレの先駆者たち』で1988年に公開済みだったけど、“放浪者”と30分強におよぶ“インプロヴィゼーション:ザ・リッチ・タペストリー・オブ・ライフ”の映像は強烈だ。動くジェイミー・ミューアをじっくり観てたら、我々は彼本来の真の破壊力を全然理解してなかったことに気づかされたのだ。迂闊にも。
背中が裂けた毛皮のベストを直に素肌に羽織った赤パンツの男が、音が鳴るありとあらゆる物体に囲まれ、神経質そうに何かしら鳴らし続ける。吊るした鉄板を叩き、自転車のクラクションを鳴らし、鳥笛を吹き、チェーンを振り回し、あらゆるキッチン道具を共鳴させ、横山ホットブラザーズ級のノコギリ芸を披露し、大量の落ち葉をそこら中に撒き散らしてトロンボーンを吹き、実はドラムも達者に叩いてみせる。
ライヴ中ずーっと目の前で繰り広げられる〈自由過ぎる演奏スタイル〉に、フリップ以下他の四人がよく吹き出しもせずストイックに演奏し続けられるなと、この映像を観るたびに感心する。やはりミューアの存在自体が〈大試練〉だったはずだ。
「自分のために音楽が存在するのではなく、自分が音楽のために存在することをジェイミーから学んだ。自分のテクニックよりも、その音楽に相応しい演奏をする。絶対に忘れない」と述懐するほどドラム観を再三覆され、脱退後は脱退後で〈ミューア不在の打楽器二人羽織〉を一人で担うべく身体を張った試行錯誤を繰り返すことで、手段を択ばぬ好戦的ドラマーへと大変貌したビルブルが、ミューア効果の最たる発露の例だと思う。気がつけば彼のドラムセットはその周囲にラックを増設し、パーカッショニストとしての武器が続々と吊り下げられたのだから。
1999年の新生アースワークスでアコースティック・ドラムへ原点回帰するまで、ビルブルの背中には常にミューアがいた。私が今回最初に触れたミューアの訃報は、全編ミューア愛に溢れまくったビルブルのインスタだもの。
ピート・シンフィールドが逝った前日に亡くなったのは、谷川俊太郎さんだった。ジェイミー・ミューアとほぼ同日に逝ったのは、つば九郎――なんかわかる気がする。合掌。
市川哲史(どうしてプログレを好きになってしまったんだろう)
