BEAT来日に寄せて

BEAT来日に寄せて

僕が過ごしたキング・クリムゾンの日々。
エイドリアン・ブリュー版キング・クリムゾン再訪・開放プロジェクト、BEAT
ファン唖然・騒然の武道館公演決定!

君は考えたことがあるか? キング・クリムゾン・ナンバーが武道館に鳴り響く日が来ることを!

公式ドキュメンタリー『KC at 50』再見
 ドキュメンタリー映像作品『KC at 50』を再度観てみる。そこで実感するのはあのドキュメンタリーの中のクリムゾンは『宮殿』を作ったオリジナル・クリムゾンと2014年以降のクリムゾンがメインでサブとして『太陽と戦慄』から『レッド』、『USA』期のクリムゾンが置かれているが、80’s、ダブル・トリオ、ダブル・デュオはちなみにそういう時代もありましたといった扱い。
 扱い自体が軽い。80年代から2000年代に至るクリムゾンをフリップと共に牽引したエイドリアン・ブリューの扱いはほとんどその他の証言者枠の扱いで、しかもまぁ、彼がインタビューで述べたであろう事柄からソフトなところを抜いて作品に挿入したのだろうが2014年以降のクリムゾンに呼ばれなかった男が恨み節を語って終わりといった印象しか受けない。

 バンドに対する敬意と腹の中に今も特定メンバーに対する怒りを持ち続けるトレイ・ガンと共にあのドキュメンタリーの中では「毒を吐く人」枠に入れられている。「毒を吐く人」枠だったら現役時代から不穏な発言には事欠かなかったビル・ブルーフォードがトップに立ちそうなものだが、もうそれは過去のことと割り切っていたのか、多少嫌味は込められていたが「歴史の当事者としての証言」に終始していた。インタビューに来た人間を門前払いするのも大人気無いので一応答えたガン、それは過去の出来事と淡々と思いで話に終始するブルーフォードに比べブリューの発言はなんだかウェットだ。

 『KC at 50』が発表された時点でキング・クリムゾンは既に活動終了を宣言しており、その歴史に終止符を打っていた。ブリューがキング・クリムゾンのメンバーとして復活することは未来永劫なくなってしまう。自分が在籍していた時代のキング・クリムゾンが軽く扱われたままで終わるのは如何なものか、ブリューが憂うのも当然だろう。

身から出た錆となったクリムゾン・プロジェクト
 時計を大きく巻き戻して1996年から1997年。ダブル・トリオ・フォーメーションで復活を果たしたキング・クリムゾンは1995年のワールド・ツアーに続き1996年にも短期のツアーを行いアルバム『スラック』に続く作品制作のためのリハーサルを開始する。クリムゾン復活のためにそれまでに溜め込んだアイデア、素材を一挙放出した後だけに諸々枯渇状態の上、世帯が大きくなっていたこともありバンドとしてのコンセンサスも取りづらい。そんな状況の中のミーティングでその時のバンドの状況について誰もが思っていても口にしなかった思いをブルーフォードが「毒まじりの正論」としてぶち上げたことでリハはあっけなく座礁。フリップは今後のクリムゾンのあり方を模索するためのプランとしてクリムゾンでの活動を停止し研究・開発を主眼としたプロジェクト活動の推進を発表。

 プロジェクト活動に一定の理解を示したのはダブル・トリオ新参者のトレイ・ガンとパット・マステロット。ブルーフォードはここらが潮時とばかりプロジェクト1をサヨナラ公演として脱落。トニー・レヴィンもクリムゾンが利益を出さないなら、他の仕事優先、スケジュールが合えば参加モード。ブリューはせっかく復帰したクリムゾン・メンバーの座は死守したいが収入激減は回避したい意向。打開策として生まれたのがブリューがVドラムを担当するプロジェクト2。4つのプロジェクトの中で最も公演回数が多く、クラブ主体とはいえ会場規模も大箱クラス。ある種ブリューに対する忖度プロジェクトであった。プロジェクトの中で最も金が動いたことは間違いないが、その後のクリムゾンへの貢献という点では疑問が残った。ダブル・デュオとして復帰したクリムゾンに貢献したのはフリップと新参者2人が中心だったプロジェクト3と4だったのはご承知のとおり。

 プロジェクト2以降のブリューはフリップの動向を日々チェックしながらソロ活動で収入を得る活動を展開。その後ダブル・デュオに復帰も果たし、フリップがクリムゾン・カタログの権利を買い戻したのを機にキング・クリムゾンを核としたビジネス展開を打ち出したこともあり、いよいよ数年で解散しないパーマネント・バンド、クリムゾン誕生かと有頂天になるも、歴史は繰り返される。

 2003年『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』発表に伴うツアー終了時にトレイ・ガンが脱退、トニー・レヴィン復帰を発表するも再び活動停止。エイドリアン・ブリュー落単の日々が再び始まる。それでもクリムゾン再始動に一縷の望みを持つブリューはフリップの申し出を受け関係修復案件プロジェクト6が短期間活動した後、2008年北米ツアーでクリムゾンは再起動するも短いツアーが終わるとフリップはそそくさと帰国し、ブリュー在籍時のキング・クリムゾンは終焉を迎える。

 フリップ、ブリューを含めキング・クリムゾンは無くて七癖のメンバー揃いのバンド故、活動を継続していくこと自体が難しいバンドではあったが、ブリュー再び失意の日々が始まる。2010年代に入るとフリップが引退宣言を出すなどクリムゾンの復活は困難と見るや2012年にはパット・マステロット、トニー・レヴィンにブリューでトリオ1、ブリュー人脈から選抜されたギター、ベース、ドラムからなるトリオ2を合体させたブリュー版ダブル・トリオ、クリムゾン・プロジェクトで活動を開始する。

 クリムゾン・プロジェクトが始動した同時期、日本来日中にスティーヴ・ハケットの「ジェネシス・リヴィジテッド・ツアー」公演を観たデヴィッド・シングルトンはフリップがライヴ活動を行わないならクリムゾン所縁のメンバーによるトリビュート・バンドを作るアイデアを得て、フリップの承認を得るため話し合う内にフリップ本人が参加の意思を表明。リイマジン・クリムゾン、通称楽団クリムゾンが生まれる。人選段階でブリューは「あっちはあっちでやるだろうから」と落選。最もクリムゾンに対する執着が強いブリューはその執着の強さ故に始めたクリムゾン・プロジェクトが復帰の道を閉ざす結果となる。

 BEAT日本公演を観に行くかやめるか迷っているファンの多くがなんとなくモヤっとしている点はBEATとあのクリムゾン・プロジェクトはどこが違うのか?ってところだと思う次第。クリムゾン・プロジェクトはフリップが90年代クリムゾンを復活させるにあたりデヴィッド・シルヴィアン入りのプランAが頓挫した後に打ち出したダブル・トリオ・フォーマットを継承したスタイルで、マステロット、レヴィンはいたし、もう1つのトリオの方も確かにテクニック的には申し分ないメンバーを引っ張ってきていたけれども、型を継承しただけで終わったと強く感じるのだ。

 大体において本家クリムゾン・ダブル・トリオにしても『スラック』を作り上げることはできてもその先には発展できなかったからプロジェクト活動が始まったわけで、着眼点は間違っていなかったのだろうけど、クリムゾン・プロジェクトは結果、本家同様その大所帯をやっぱり持て余した状態で終了する。今日に至るクリムゾン史の中でブリューのクリムゾン・プロジェクトってあれこそはダブル・トリオの偉大な継承バンドだったって評価になっている? あぁ、そう言えばあったね、となるのではないか。そしてそれは『KC at 50』に於けるブリュー時代のクリムゾンの扱い同様、彼のエベレスト並みに高い自尊心を深く傷つけるのだ。

クレーム合戦からブリューが気付いたもの
 2014年から始まったリイマジン・クリムゾンはファンが聴きたいクリムゾン楽曲をきちんと演奏する一方でそれまでライヴで取り上げていなかったアルバム楽曲、猫またぎしてきたアルバムにスポットを当てるなどツアー毎にその年の見どころを設定し、実際それは思い通りの効果を呼びツアーは成功を収めてきた。クリムゾン史の中でほとんどなかったこと扱いだった『リザード』楽曲をフィーチャーしたり、『アイランズ』収録楽曲の再構築を試みたり。そしてツアーに合わせ発表される40thアニヴァーサリー・ボックスとリンクさせることでビジネス的にも成功を収めてきた。

 そんなリイマジン・クリムゾンが唯一手をつけなかったのがブリュー時代のヴォーカル入り楽曲だったのだが、クリムゾン側は遂にそこにも着手し、リイマジン・クリムゾン版を演奏する意向を表明。これに対しブリューは演奏を差し止めるために法的に動こうとした。JASRACのデータベースを見ればブリュー期の楽曲は僅かな例外を除きその時のメンバー全員が作曲者として列記されている。リイマジン・クリムゾン側に作曲者が2人以上在籍しているのに演奏差し止めができるわけは無く、クリムゾン側からも「それを望むのであれば今後そちらもクリムゾン楽曲を演奏できなくなる」と返されあえなく終息。

 クリムゾン側が取り上げたのは「エレファント・トーク」、「テラ・ハン・ジンジート」でも「ニール・アンド・ジャック・アンド・ミー」でも「スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー」でもなくアルバム『ビート』収録の「ニューロティカ」。爆発的疾走感に満ちたインスト部分はまさに楽団形態のクリムゾン向きでリイマジン・クリムゾン版「ニューロティカ」も高評価を得たのだが、一方ではインスト・パートに乗る言葉が次々と弾け飛んで行くブリューのヴォーカルがない「ニューロティカ」は画竜点睛を欠くという印象を受けたのもまた事実。

 ニューウェーヴと80’s POP全盛、プログレは絶滅の危機に瀕していた80年代にポリリズムの大胆な導入で80’sミュージック・シーンに返り咲き、プログレッシヴ・ロックの新たな地平を切り拓いた80’sクリムゾン。卓越したテクニックを誇る4人のメンバーによる演奏スキルの高さがひとつの大きな柱になっていたことは間違いないが、その中にあっても両極端と言っても過言ではないギタリスト2人のマッチアップは登場から半世紀近くが経過した今日でもその輝きを失っていない。リイマジン・クリムゾン版「ニューロティカ」はそれを証明して見せたが、そこに乗っていたブリューのヴォーカルは唯一無二のものであり、リイマジン・クリムゾンをもってしてもそこは乗り越えられなかったのだ。

80’sクリムゾン、リイマジンのために必須だったスティーヴ・ヴァイ
 インスト楽曲だけではなく圧倒的な存在感を今も持ち続けるヴォーカル楽曲を含む80’sクリムゾン楽曲に特化したエイドリアン・ブリュー版リイマジン・クリムゾンであるBEATを実現するために必須だったのがロバート・フリップに代わるギタリストの選択であった。ブリューが選んだのはスティーヴ・ヴァイ。話題の面でもBEATでブリューがアピールしたいものを強く打ち出す面でもヴァイという選択は唯一の正答だったと思う。

 BEAT結成が発表されて以来ブリューもヴァイもフランク・ザッパのバンド出身だったことは繰り返し書かれてきた。ブリューは70年代末。ドラムがテリー・ボジオだった時代の最終盤1978年のツアー・ギタリストとして参加。スタジオ・アルバムへの参加は1979年発表の『Sheik Yerbouti』くらい。(ライヴ・アルバムとしては下写真右の2010年に発表された78年のロンドン、ハマースミス・オデオン公演音源『Hammersmith Odeon』が名盤の誉高い『Zappa In New York』に匹敵する出来で、ブリューのギターも絶好調)短期間の在籍であった。

 当時のブリューはその名を世に知らしめるため八面六臂の営業活動に勤しんでおり、ザッパ・バンドに参加する傍らデヴィッド・ボウイのツアー・バンドにも参加、79年にはトーキング・ヘッズに急接近。ザッパからギタリストしての才能は買われていたが腰掛け程度の活動に終わっている。
 スティーヴ・ヴァイがザッパ・バンドに参加するのはその直後で時期的には後にミッシング・パーソンズに参加するギタリスト、ウォーレン・ククルロ在籍時とダブっている。営業活動に忙しかったブリューに対し、ザッパ・バンドで活動することはギタリストとしてのスキルアップに繋がると考え腰を落ち着け、ギタリストとしてばかりではなくザッパ楽曲の採譜も行っていたという。ロバート・フリップ同様、学究派の人だった。ギターに対する真摯な姿勢はザッパの覚えも良く、70年代にザッパから絶対の信頼を得ておりステージでもイジられまくったテリー・ボジオに近い厚遇を受けていた。在籍も1983年まで続き80年代初頭のザッパの活動をサポートした重要メンバーであった。

 あちこち飛び回るブリュー、腰を落ち着け研究に勤しむヴァイ。そのイメージはそのまま80’sクリムゾンのフリップ、ブリューの関係やステージでの立ち振る舞いを想起させる。BEAT結成にあたり80’sクリムゾン楽曲をプレイできる敏腕ギタリストは両手でも足りないくらいリストアップできただろうが、絶対に崩してはならない80’sクリムゾンが持っていた固有の型を継承し、更にその先に見えてくるプラスアルファを追求していくためにBEATにはスティーヴ・ヴァイが必要不可欠だったのだ。

 スティーヴ・ヴァイ選択のもうひとつの理由はロック・シーンの第一線で40年以上に渡り活躍し続けた経験値だろう。テクニックだけではなく高い経験値も持ち合わせていないと思い描いた結果を得ることができないことをブリューはクリムゾン・プロジェクトで身をもって経験している。それ以外は考えられないヴァイを得て、勝手知ったるトニー・レヴィン、こちらもテクニック、経験値共に申し分なく90年代から友好関係を維持してきたTOOLのダニー・ケアリーを獲得し結成に至ったBEAT。80’sクリムゾンを21世紀に復活させ、エイドリアン・ブリュー側から見たもうひとつのリイマジン・クリムゾンをファンに提示するためBEATは盤石の布陣を敷いたことは間違い無いだろう。

BEATは安易なネーミングにあらず。エイドリアン・ブリューの覚悟の証
 ブリュー在籍時のアルバム・タイトルであったにせよ、BEATってなんだか安易なネーミングという意見があちらこちらに散見できるが、そりゃ、違うだろう!と強く思う。アルバム『ビート』はエイドリアン・ブリューにとってキング・クリムゾン在籍時最大の黒歴史でありトラウマ・アルバム。81年全力でポリリズム体得に取り組み全神経をすり減らしようやく完成させた『ディシプリン』。そしてそのアルバムをプロモートするためにアルバム完成にこぎ着けるだけでも苦労した『ディシプリン』楽曲をステージで再現するためにさらなる苦労を体験し、全てを出し切った状態にも関わらず目の前に後に『ビート』として発表されるアルバムのレコーディングが控えていた1982年。

 楽曲の候補は僅か、アルバム用楽曲のためのアイデアも枯渇、歌詞制作のプレッシャーなどブリューの肩に負わされたものはあまりに重く、ブリューはクリムゾン脱退を表明。一時は混乱を極めるも周囲の説得もありブリューは残された3名に謝罪し脱退は撤回されるも、彼は大きな屈辱感を背負い、全く解消されないプレッシャーと闘いながら『ビート』を完成させる。ブリュー自身が「二度と体験したくないレコーディングだった」と後に語るほどであった。それを何となく響きが良いのでバンド名にしましたとは考えづらい。自分のトラウマ体験アルバムをバンド名にするのは覚悟であり決意であると考えたほうが正しいだろう。

そして、9月1日武道館にクリムゾン・ナンバーが鳴り響く!
 キング・クリムゾン本体であればロバート・フリップの会場選択基準に全く合致しないため武道館が選択されることはあり得なかったが、BEAT公演は武道館に決定。エイドリアン・ブリューがクリムゾン本体にマウント取りにいった説もあちらこちらで語られているが、それは全く否定しない。ブリューは性格的に実際そういうところがあるし、会場が武道館と聞いた瞬間、然もありなんと思ったのは事実。実際にはスケジュール面での制約が大きく作用したらしいが、理由がどうあれ武道館にクリムゾン・ナンバーが鳴り響くというシーンには心惹かれるものがある。全く考えてもみなかった会場である。キング・クリムゾンの歴史を考えてもこれは事件だと思う。そして恐らくこの一大事を体験できるのは最初で最後になるであろう。

時は無常に流れていく
 最後に個人的な話を。2014年オールマン・ブラザーズ・バンドがこの年の活動をもって解散という発表があり、毎年恒例の春のニューヨーク、ビーコン・シアターといくつかのショウを行い解散する予定だったのだが、ビーコン・シアターの連続公演開始直後にグレッグ・オールマンの体調不良で残った公演がキャンセルされ、その後10月に仕切り直しされることになった。
 この10月公演が観たくて行こうと思ったのだが、日々の仕事が忙しく、結局きっと数年したら何食わぬ顔でまた再結成するだろうと甘く考え、断念したのだがそれから数年でグレッグは亡くなりオールマン・ブラザーズ・バンドは二度と観られないバンドなってしまう。
 これを今でも後悔している。もう10年以上経過しているのに、あの時行けばよかったとことある度に強く、強く思うのだ。

 ロバート・フリップがいるキング・クリムゾンは残念ながらもう観られないだろう。本人が健在でも一度終了と決めたらやらないに違いない。BEATはフリップがリイマジン・クリムゾンでやり残したもの、手をつけたものの未完に終わったものを補完する、右から見るか左から見るかの違いがあるだけのもうひとつのクリムゾンだと思う。そのBEATにしてもこれからパーマネント・バンドとして活動していくことは考え難い。

 これを読んでいる既にベテランの域に達したロック・ファンのみなさんが音楽人生を通じて追い続けてきたバンドやアーティストは残念ながらひとつ、またひとつ観ることが叶わない存在になっていくのだ。それが現実で時間は無常に粛々と流れていく。そういう時代になってしまったのだ。

 もし、今、9月1日のBEAT公演に行くか、行かないか迷っているのであれば、エイドリアン・ブリューが自分がいた時代のクリムゾン楽曲に本気で取り組みまさかの武道館で繰り広げるパフォーマンスを是非確認してあげてほしいと思う。(個人の感想ではあるが)後から思い出した時の後悔は考えているよりもずっと強い痛みを伴っていつまでも心の中に止まっている、と書き添えておく。