ABOUT KING CRIMSON : Part1 1969年、オリジナルKING CRIMSON

不人気ジャイルズ、ジャイルズ&フリップからKING CRIMSONへ

KING CRIMSONは発表当時ほとんど人々の注目を集めなかったジャイルズ、ジャイルズ&フリップ(以下:GG&A)を母体に1969年に結成されたバンド。
ギタリスト、ロバート・フリップ、ドラムにマイケル・ジャイルズ、ベースにピーター・ジャイルズのジャイルズ兄弟で結成されたGG&Aは1967年イングランド南部ドーセットのボーンマスで活動を開始。翌68年にデラム・レーベルよりアルバムを発表するも話題にならず、セールスも低調で燻りながら次のステップを模索していた。

 アルバム発表後、サックス、フルート担当のイアン・マクドナルドが加入、女性ヴォーカルとしてジュディ・ダイブルらが参加していた時期もあった。デモ・テープ制作を進めながらバンド活動を継続。旧知の仲だったギター、ヴォーカルのグレッグが加入し、レイクがベース&ヴォーカルにコンバートした際にピーター・ジャイルズが脱退。作詞・サウンドエフェクト・照明担当でピート・シンフィールドも加わり、1969年初頭、GG&AはKING CRIMSONに改名し、リハーサルを開始する。

伝説のハイドパーク・パフォーマンスから『クリムゾン・キングの宮殿』発表

 ロック、ジャズ、クラシックの境界を越え、新たなサウンドを作り上げようとしていた当時のブリティッシュ・ロック・シーンの刺激的な空気の中、KING CRIMSONは攻撃的でハードコアなジャズ・ロックと叙情性を打ち出した振れ幅の大きいドラマティックなサウンドを作り上げ、ライヴ活動も率先して開始。そのパフォーマンスはファンの話題となり名門マーキー・クラブのレジデンス・バンド枠を獲得、69年7月5日には故ブライアン・ジョーンズ追悼、新メンバー、ミック・テイラーのお披露目公演となったTHE ROLLING STONESのロンドン、ハイドパークでのフリー・コンサートに出演。そのパフォーマンスはSTONES目当ての観客の度肝を抜き、ファンベースを大きく拡大。バンドはプロデューサーに当時、プログレッシヴ・ロック界のトップ・ビルであったTHE MOODY BLUESを手がけていたトニー・クラークを迎えアルバム制作を開始する。

 トニー・クラークのプロデュースに「第2のTHE MOODY BLUES」という枠に収め、バンドの個性を活かしきれないと感じたメンバーは当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだったこの有名プロデューサーを解雇。バンドのセルフ・プロデュースでアルバム制作を行うことを決意し、レコーディングを再開。69年9月にレコーディング終了、『クリムゾン・キングの宮殿』は10月に発表された。

 『クリムゾン・キングの宮殿』は英国のみならずヨーロッパ全体を巻き込んだセンセーショナルなヒット作となり、北米での配給権を持つアトランティック・レーベルも大きな期待を抱き、アルバム・プロモーションを兼ねた北米ツアーが組まれバンドはアメリカ東海岸からツアーを開始する。

 『クリムゾン・キングの宮殿』を語る上で、古くから「THE BEATLESの『アビー・ロード』をチャート首位から引きずり下ろした」という史実と異なる都市伝説まがいの逸話が引用されるが、そうした事実はなかったにせよ、時代が動き、ロックのトレンドが大きく変わろうとしていた節目の空気の中から湧き上がった逸話という見方はできるだろう。LED ZEPPELINにも似たような作為的逸話が存在する。史実とは異なる与太話であったにせよ『クリムゾン・キングの宮殿』発表当時のKING CRIMSONは確実にトレンド・セッターだったのだ。

オリジナル・ラインナップの呆気ない崩壊

 アメリカ東海岸から始まった北米ツアーは序盤こそサポート・アクト、ゲスト出演枠での演奏だったが、アメリカでも『クリムゾン・キングの宮殿』が発表されると注目度は大きく上昇。11月後半になるとメイン・アクトとしての公演も行われるようになった。

 オリジナル・ラインナップのKING CRIMSONはレコーディング中にもイギリス国内で公演を行うなど精力的なライヴ活動を展開していたが、イギリスは大きな国ではないので国内ツアーは長くても数日間家や家族と離れるだけで、自分の家を中心としていたが、初の北米ツアーはアメリカ全土を横断する形だったこともあり、家、家族、恋人と長期間離れて過ごすことを余儀なくされ、同じ英語圏とはいえ、文化・習慣の違いもあり、そうした環境の変化はメンバー間の結束に影響を及ぼした。バンドの発展のためであれば、ツアーを続けその存在をファンに示すのを是とするメンバーがいる一方、ツアーは非生産的であり、落ち着いた環境で作曲を行い、スタジオでの作品制作を中心とした活動を是とするメンバーもいた。

 残るレイクとシンフィールドはといえば、まず、レイクはフリップとベクトルは異なるがツアー肯定派。バンドの女性ファン対応担当として、ツアーを楽しむ術を早くも体得。シンフィールドは環境の大きな変化に苦労しつつも、後のアルバム『アイランズ』にこのツアーの思い出を盛り込んだ「レディース・オブ・ザ・ロード」の歌詞を提供したくらいなので推して知るべしだろう。

 こうした思惑の相違はツアーが進行するうちに大きくなって行き、やがてメンバー間の関係にも影響が出始め、マクドナルド&ジャイルズは脱退の意思を固めていく。オリジナルKING CRIMSONは既に決まっていた公演スケジュールを消化し、12月のサンフランシスコ、フィルモア・ウエスト公演を最後に崩壊してしまう。

 半世紀以上の時間が経過した今もブリティッシュ・ロック、プログレッシヴ・ロックを代表する名作としてファンに聴き続けられている『クリムゾン・キングの宮殿』を作り上げたオリジナルKING CRIMSONは実質、1年に満たない活動期間であっけなく消えてしまったのである。

Part2に続く

 

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